★今は退職されました
耳の聞こえない料理人(コックさん)は全国で少しずつ増えてきています。
しかし、コックさんとして働くということは周りのコックさんやお客様などとのコミュニケーションが重要になるため、周りからの理解も必要になってきます。
そのため、希望しても断られるのが今の日本では残念ながら多く、それが当たり前という風潮もまだ残っています。
そういう日本の中でコックさんになるまでの道のりやその苦労など、また、どうして料理人になりたいと思ったのか?など色々なことをお話ししていただきました。
担当はHAPUNE代表のまみさんです。文章は本人の言葉をなるべくそのままにしています。
目次
板前さんだった父を見て育った子ども時代
(木地谷さん)
実は、私の父親が板前(和食)さんだったんです。
私の生まれは岩手県の宮古というところですが、そこでも父は有名な板前さんでした。
料理ができる父が誇らしかった
どこへ行っても色々な人から声をかけられ、「あなたのお父さんはすごいね」と言われたのでそれが大変誇らしかったです。

その父が憧れでしたし、「ぼくもいつかは父のように色々な料理が作れる人になりたい」と小さいころから思っていました。
いつも料理の匂いがあふれる家で育った
そんな父は、家の中でも色々な料理を作ってくれました。
2階にいても、気がつくと包丁の「トントン」揚げ物の「ジュージュー」など色々な音が聞こえてきます。
またいい匂いも鼻で感じることができます。
そして1階に行くと父または母が料理を作っている後ろ姿がいつもありました。
また、祖母も料理がとても美味しく、バリエーションが豊富でした。
いつ食べても変わらない美味しさ、それにいつも感動していました。
料理のイベントに参加して褒められたことも
実は小学校のころ、料理のイベントに参加したことがあるんです。
その時に野菜スープと蒸しパンを作ったんですが、その出来栄えがとても良く先生に褒められました。
それがとても嬉しくて「いつかは父親みたいに自分で料理を作って出したい」という気持ちが出てきたのを覚えています。
また、高校の時も家庭科の企画で料理を作ったことがあるのですが、この時は岩手県の料理(ひっつみ・ひゅうず)を作りました。
その時の包丁さばきが誰よりも早かったので皆が集まってきて、「わー、すごい!!」とワーワー騒いでいました。
それが嬉しかったのを覚えています。
耳が聞こえなくても料理人になりたい!
ただ、この頃はまだ将来の夢とかそういうのはなくて、ただ、色々な料理が出来るようになりたい、としか思っていませんでした。
調理専門学校を目指すも・・・
高校を卒業した後は昔から料理が好きだったこともあり、また、様々な調理を学びたかったので調理専門学校に通おうと思っていました。
でも経済的な事情もあり、仕方なく職業専門学校(障害者が将来の仕事に向けて事務などを学ぶところ)に通うことになりました。
やりたいことができず荒れた・・でも諦めきれなかった
職業専門学校(略:職専)では自分が本当にやりたいこともできずムシャクシャしていたので、日々遊びに明け暮れていましたね(苦笑)
でもそれでも、やはり調理への夢は捨てられず・・・
またこの頃は、お互いに時間が合わなかったため家族そろって食卓を囲むということがあまりありませんでした。
それで、家に帰ってからは自分のご飯は自分で作るようになりました。これが荒れていた時代の唯一の楽しみだったんです。
この時もまたやっぱり「料理っていいなあ」という気持ちがありました。
そのため、荒れていた時代でも、ずっと「父のように料理が色々とできる人になりたい」という気持ちは捨てられませんでした。
それに、職専では色々と荒れてしまったので、こんな自分を誰も知らない場所で暮らしたいという気持ちもありました。
それで色々と考えた結果、職専卒業後、思い切って単身名古屋へ行くことにしたんです。
これが今思えば、人生の転機だったかなと思いますね。
名古屋でやっと調理の仕事にありつけた
そして名古屋では、「やはり自分がやりたいと思ったことをやろう!」と決め、様々なレストランの門をたたきました。
調理専門学校に通ったこともない私が「調理の仕事がしたい」と言っても受け入れてくれるところはなかなかなく・・・
おまけに耳が聞こえないというハンデもあったので、色々と断られましたね。
例えば、「お前がコックになったとしても、お客さんからのオーダーはどうするのか?
いちいち聞きに行くのか?」と言われました。
この時は、「色々なやり方がある。やってみないと分からない」と答えたのですが、それでも話を聞いてくれず断られました。
※※※補足※※※
今だと、例えばタッチパネルでオーダーしたらその注文レシートが自動的にキッチンに送られたり、また、ウェイターが注文を聞いて紙に書いて直接渡すなど色々な工夫ができますね。
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しかし、色々と探した結果、名古屋の和食レストランで働くことができました。
この時に働いたのは、名古屋のセントラルタワーの中にある名古屋名物のひつまぶし&きしめんの店です。

この頃は周りとのコミュニケーションも上手くいかなかったり、また自分の気持ちも前向きではなくまだ荒れていました。
ただ、それでもやはり、「仕事で料理ができる」というのが心のハリにもなっていました。
そしてそのまま時間が経っていきました。
2回目の転機は東日本大震災だった
ずっと名古屋で働いていた時、2011年、あの東日本大震災がやってきました。
そして自分が生まれ育った岩手が色々なひどいことになっているのを知り・・・目が覚めました。
震災で目が覚め・・・東北へ戻る決意
名古屋ではそこまで熱意はなく、「料理ができる」というだけで適当に仕事をしていた自分がこの時に変わりました。
「自分は何をやってるのか?」
「東北のためにできることはあるだろうか・・・」
そしてそれから1年半・・
色々と考えたり周りに相談したりして、私は生まれ育った東北に戻ることにしました。
そして東北でもまた色々と探しました。
その結果、仙台にある「利久」という全国でも有名な牛タンのレストランで仕事をすることができました。
マスクをつけると口が読み取れず会話が困難になる
そして利久では、主に牛タンの加工工場で働きました。
そこでは、「牛タンのカット」「皮むき」「計量」「味付け」など色々な分野に分かれて仕事をしていたのですが、私は主に「計量」が中心でした。
コックさんではなく加工の仕事だったのでそこまで大変なことはなかったのですが、それでも、困ったことはありました。
私はどちらかというと難聴で、ある程度補聴器を使って耳で声を聞き取ることはできます。
しかし、それだけでは足りません。耳だけでなく、口も見て、相手がなんと言っているのかを読み取ります。
つまり、口を見て、それを補助するために耳でも聞く、という感じです。
でも、料理人の世界では、場所によっては全員がマスクをしているところがあります。
特に私がいたのは加工工場だったので、そこでは衛生のため、全員がマスク着用でした。
それで「私は口話はOKです。でも、話すときはマスクを取ってください。」と部長に前もって伝えておき、部長から社員やパートに周知していただきました。
しかし、それでも忘れる人もいるし、自分のエリア以外のスタッフもいます。
結局は全ての人がマスクを取って話してくれるわけではなかったし、辞めるまでずっとこのマスク問題で困っていました(笑)
※※※補足※※※
今は透明なマスクなどがあり、病院では透明なマスクを付けているところもあります。
料理の世界でも透明なマスクが当たり前になってくれたら、きこえない人でも口を見て話ができるので助かりそうですよね。
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将来の夢が少しずつ形になってきた
そして利久で働いていた頃は、プライベートの時間を増やし友だちとの時間もたくさん作って手話を身につけたり色々なことをやって自分の幅を広げようと思っていました。
そして仙台で色々なろう者の友達と会い、色々とお話ししていきました。
この時に、ある友達から「東京には、ろう者が経営している居酒屋がある。(ふさおのことです)こういう店が東北にもあったらいいのにな」という話を聞きました。
※※※補足※※※
関東にはろう者経営のカフェや居酒屋が5店舗ほどあります。
そして関東にラーメン屋も2店舗できました。
また関西や九州でも、ケーキ屋さん、パン屋さん、居酒屋、カフェなどろう者・難聴者が経営している店が増えてきています。
しかしどれも、お客様とのコミュニケーションが必須なのでお客様からの理解も必要になってきます。
そのあたりはどこの店も様々な工夫をしているようです。
「聞こえないから経営は無理」「聞こえないから接客は無理」ではない、工夫さえあればできることもあるのだという証明ですね。
※※※※※※※※
またこの時は、色々なろう者と出会い、自分がみんなを引っ張っていきみんなに夢を与えていける人になりたい、という気持ちがありました。
それで、「それなら、自分が東北でろう者の店を作ってみたい」と思うようになりました。
この時から、将来の夢が出てきて色々と考えるようになりました。
将来の夢につなげるための転職
そして私は、将来の夢につなげるため、別の店に転職を決めました。
ここでは、ジャンルはイタリアと決めていました。
ここでなぜイタリアにしたのかというと、今までずっと和食系統で働いていたので他の系統の料理もしてみたかったから、というのがあります。
また、私は将来、東北で自分の店を持ちたいと思っていて、そのカフェの方向性とイメージがマッチしたからです。
イタリア系のカフェを立ち上げるのが私の夢
そして将来は、イタリア系のカフェで、例えばピッツァ釜が見えるようなレイアウトにし、ろう者がくつろげるような店内の雰囲気のある店を作りたいと思っています。
まだまだ先の夢ですが・・。
その中で、ろう者も健聴者も雇ってろう者スタッフと健聴者スタッフがともに良いチームワークを築き上げていけるような職場環境を作りたいなと思っています。
耳が聞こえない人が料理をするときのコツ
そして色々とありましたが、今はイタリアンレストランで材料仕入れやキッチンなど色々なことをさせていただいています。

(2枚の写真は賄いに出している料理の一部です)
少し前までは揚げ物担当でした。
実は、揚げ物は「言葉」ではなく「音」で判断するので、揚げる時のベストタイミングは難聴者にとっても一番難しいです。
健聴者は、揚がった時の「ジュワ」という音で判断しますが、私はそれが難しいので、「色具合」や「身を切った時の色」「感触」など・・様々なことからまとめてタイミングを身につけてきました。
なので、音もそうですが、やはり私は「目」「鼻」「舌」でのチェックが大きいですね。
料理は周りのコックさんを見て覚えた
そして料理は周りのコックさんを見て覚えました。
制作過程は、健聴者の場合は口で説明してもらいそれを聞きながら覚えることができますが、私はそれが難しかったので、とにかく見て覚えました。
見て、覚えて、実践しての繰り返しで間違いがあれば教えてもらう、という形でやってきました。
協力的だった周りのコックさんたちの存在

でも、自分が見て覚えただけでなく、周りのコックさんたちも色々と考えてくれました。
例えば、私個人を直接呼び出して、実際に料理をやらせて、おかしいところなどがあったらその時に伝えてくれたり、また、「通じてないかな?」と思ったら紙に書いて伝えるなどしてくれました。
その他にも、先輩と一緒に同じもの(例えばピッツァ)を作らせて、先輩の作ったものと自分の作ったものを見比べたり、食べ比べしたりして、「どこがどう違うのか」を教えてくれたりもありました。
難聴者もろう者も、どちらも「耳で完全に聞くことはできない」ので、一対一で直接教えてもらった方が分かりやすいです。
また、聞くだけでなく、実際にやってみて、教えてもらう方が「目で見て判断する」ろう者や難聴者にとっては一番分かりやすい教え方だと思います。
なので、こういうふうに周りのコックさんたちが色々と考えて協力してくれてるのはとてもありがたいと思っています。
そして今も、仙台のパルコ内のイタリアンレストランでコックとして働いています。
皆さんも仙台に来ることがあったら、ぜひ店に来てください。

聞こえない人に伝えたいこと
コックを目指すろう者に向けて。
コック(料理人)とは「愛情より人間味」です。
愛情は「誰か一人のために」または「家族のために」捧げるものであって、人間味は「人々と向き合う心」「気配りができること」などの「温かみのある心」を持つこと。
この違いをしっかりと考えて行動することが大事だと思います。
つまり、愛情だけあっても人間味がないと、人とのつながりはできないと考えています。
そして、夢とは何か?
夢は、口でいくら出しても結果は出ません。
そして、待っても何も起こりません。
夢を持っている人は、どんな壁があろうとそこに飛び込むことで必ず何かが変わると思ってください。
そして、成長するためには死ぬ気で挑戦すること。
これが大事です。
聞こえないことを理由にしない
確かに、「聞こえないからできないこと」はいっぱいあります。
周りの人たちも、理解がなかったり、いじめてきたりする人もいます。
ろう者も難聴者もたくさんそういう人たちを見て傷ついてきました。
それで、積極的になれなかったりする人も多いと思います。
でも、その前に、ろう者や難聴者は「自分が聞こえない」ということをどこか盾(言い訳)にしている人も多いような気がしています。
例えば、「どうせ聞こえないから」「聞こえないからできない(しなくてもいい)」と、聞こえないことを理由にしている人も多い気がしています。
それは違うと思います。

健聴者に伝えたいこと
でも、ろう者・難聴者が頑張るだけでは変わらない。
健聴者も変わる必要があります。
健聴者も、「耳が聞こえないから無理」「だから耳が聞こえない人はできない」というように、「聞こえない」ことを理由にして「ダメ」と言ってくる人が多いです。
聞こえないからダメ!ではなく、聞こえないからどうしたら出来るようになるかな?と工夫を考えていく。
聞こえない人が挑戦できるように一緒に考えていく。
これも大事だと思います。
聞こえない人と一緒に挑戦していく気持ちを持ってほしい
聞こえない人だけが頑張るのではない。
聞こえる人も一緒に頑張って、お互いに向き合いながら一緒に挑戦していける社会を作る気持ちをみんなが持ってほしいと思います。
そしたら、「聞こえないからできない」と言われていた仕事が減っていく。
聞こえない人も、できることが増えていく。
これを信じて、これからもみんなで一緒に挑戦していく気持ちを持ってほしいと思います。
今回、木地谷さんのお話を色々と聞いて思ったことは、「ぶれない意思を持って突き進んできた強さがある人」だなということです。
あとは、「プラス思考」を持っている。
この2つがあるからこそ、長い道のりをしっかりと歩いてこれたんだなと感じました。
そういうところは私も見習っていきたいな。。と考えさせられたインタビューでした。
皆さん、彼のことをこれからも応援してあげてください!
そして、仙台に行く機会があればぜひ、彼が働いているレストランに食べに行ってみてくださいね。
【木地谷さんが働いているレストラン】
仙台のピッツァ・イタリアン SALVATORE CUOMO & BAR (サルヴァトーレ クオモ アンドバール)
http://www.salvatore.jp/restaurant/sendai/
ナポリピッツァを日本に広めた功労者 サルヴァトーレ・クオモがプロデュースするピッツェリア&バールです。
カフェやディナー、ランチだけでなくデリバリーもやっているので、いつでもお気軽に利用してください。
(文責:まみ(HAPUNE代表)